2009年12月31日木曜日

デルフトのタイル Delft Tile



 デルフトの古いタイルの絵付けはほんとうに素晴らしい。こどもたちのいろいろな遊び‥ボール遊び、凧あげ、釣り‥や人びとの生活の場面から、聖書の物語、神話の世界、花や卓上の静物‥柳宗悦はレムブラントを想起する、と書いているけれど、まさにそのレンブラントやフェルメールが生きた時代の、オランダの風俗や信仰などの様子がいきいきと簡潔な筆致で描かれている。

 さまざまな絵柄があるなかでも、ことに魅力的なのは天使が描かれているものだろう。天使といっても愛らしいばかりではなく、何かいたずらをたくらんでいそうだったり、いじわるそうに見えたり、その表情ひとつひとつの豊かさ‥顔の見えないものも多いけれど、そこにも表情はある‥には感心するほかない。
 
 タイルのまんなかに描かれた絵のまわりの余白。この余白もまた、デルフトのタイルに魅かれる要素のひとつだ。広い余白の中心にぽつりと置かれた動物など、時には寂しげに思えるのだけれど、描かずに描いているこの余白が、ちいさなタイルの画面と物語に、広さと奥行きをもたらしている。
 世界中のやきものの歴史のなかでも、デルフトのタイルの藍絵は伊万里磁器の猪口と並んで、もっとも洗練された絵付けでありデザインであると思う。
 

Delft Tin Grazed Tile, The Netherlands  17th century 


Absolute Classic Masterpieces :











R.I.P.   Rowland S. Howard

2009年12月12日土曜日

山田萬吉郎さん Mr. Mankichiro Yamada



 務安は朝鮮半島の南西部、全羅南道にあり、光州とか木浦に近いといえば、あのあたりか、と想像のつく向きもあるだろう。
 山田萬吉郎さんは、戦前の務安で農場を経営してみえた方で、そのかたわら、務安近隣を中心に数多くの古窯址を訪ね歩き、その様子を一冊の本に著された。それが「三島刷毛目」で、雑誌「茶わん」に発表された文を中心に、昭和18年、「茶わん」を発行していた寶雲舎から発行されている。
 
 「三島刷毛目」の、他の多くの書物とは異なる魅力のひとつは、萬吉郎さんが研究者ではなく市井の趣味人で、この本が学術的なものではまったくないことにあるだろう。
 農場で働く現地の人びとや所謂「掘り屋さん」から「あそこに窯址がある」という情報を聞けば連れ立って出かけ、希少な陶片を手にして喜び、朝鮮陶磁の変遷について持論を展開するのだけれど、好きが高じてのこと、窯址をつきとめるまでのはやる気持ち、よいものを手にした時の高揚などが、読者である僕たちの感覚にとても近い。
 学者ではないからその文体は柔らかく、ただやきものについてだけでなく、日々の暮らしや周囲の人たち、窯址あたりの山や道すがらの様子についていきいきと達者に描き、かの地のかつての雰囲気を伝える。印象としてどこか牧歌的であるのは、萬吉郎さんが出版の時点では既に、宇治へ引き揚げてみえたからなのかもしれない。

 もうひとつの大きな魅力は萬吉郎さんの筆による挿絵で、採集した陶片が、当時のことであるから墨一色で描かれているのだけれど、その洗練された描線、絶妙な白黒のバランスはみごとというほか無い。白地に浅葱色で三島手の陶片を配した表紙は、時代を感じさせないモダンなデザインだ。
 鶏龍山窯址への旅の項では現地の景色がさらっとスケッチされていて、不思議に心が和む。朝鮮陶磁を好む者にとっては、愛すべき一冊だと思う。


Bowl and Pieces of Buncheong ware,   Korea   16th century
“Mishima Hakeme” by. Mankichiro Yamada,  1943  published in Japan

2009年12月6日日曜日

美濃の太白手 Influence of Imari 




 太白‥たいはく、という名がいつ頃からの呼称なのかはわからないけれど、その名の通り、当時の有田を中心とした肥前地方で作られていた真っ白な磁器と同じようなものを作ろうとした、美濃の陶工の試行錯誤の末に産まれたものであることは間違いない。
 とはいえ、太白手はお世辞にも白いとはいえない、というか、むしろグレーにしかみえないのだけれど、これは、有田のように真っ白な磁石に恵まれていないからで、それでもなんとか白くみせようと、時には白い泥を化粧掛けすることもあったようだ。
 このグレーの胎土や、山呉須‥天然コバルトを使った絵付けの色あいが、僕たちの目でみれば大きな魅力になっているのだから、現代のもの好きな人びとの感覚というのは不思議なものではある。

 ところで、写真の4つの猪口のうち、所謂太白手は左のふたつで、では右ふたつは何かというと、こちらはおそらく同時代の瀬戸で作られた陶胎染付けの猪口であって、複雑だけれど、こちらはこちらでよく太白手と混同される。
 よく見るとわかる通り、こちらの胎土はよく知られている瀬戸の石皿のものとそっくりで、本業土と呼ばれる瀬戸の一般的な土に、比較的灰が多めの釉がかけられているので、ほのかに黄色っぽい。絵付けの筆致も、石皿のそれをそのまま猪口に写したようでもある。伊万里の、きめ細かで洗練された絵付けとはずいぶん雰囲気が違って、達者でありつつ、いい感じにいいかげん‥というか簡略化されている。もっとも、その点は美濃産も同様で、いきいきと奔放な筆使いは本当にすばらしい。


Cups, 
Left 2 - Mino, Right 2 - Seto   Japan  Late Edo period  19th century 

2009年11月12日木曜日

絵唐津 Pictures on Karatsu



 灰色や茶色の地味な器体に、ごく簡素な模様がさらりと描かれている。植物をモチーフにしたものが多いけれど、咲きほこる花よりもむしろ風に揺れる穂や、何気ない草葉のほうが多く見られる。
 
 桃山から江戸のはじめのほんの短い期間に焼かれた、いわゆる絵唐津の絵付けは、同時代の美濃の志野や織部と共通する意匠もありながら、より身近で親しみ深い印象を持つ。唐津の諸窯が朝鮮半島出身の人びとによって開窯されたことの証明のように、唐草や渦巻きがよく知られる道園窯のものは、鶏龍山窯との近親性を感じさせる。
 
 古くより茶陶として愛されてきただけに完器を手にするのは簡単ではないけれど、かけらであれば、出光美術館などの名品に負けず劣らずの筆使いを折々に楽しむこともできる。それもひとつではなく、さまざまな絵柄、さまざまな焼きあがりを眺めていられるのは、このうえない贅沢だと思っている。


Pieces of Karatsu-ware,  
Japan  Momoyama-Early Edo period  16-17th century 

2009年10月9日金曜日

Colors of soul



 ソウル北部、景福宮ちかくの北村(プッチョン)には、瓦葺きの韓屋が多く残る。三清洞(サムチョンドン)から北村にかけての界隈には近年、ギャラリーやカフェ、レストランが増えているとのこと。モダンな内装の焼肉屋さんでのランチはおいしくてお値段も手頃。甍のむこうに景福宮と、かの国特有の岩山を望む。

View from Bukchon area, Seoul, Korea  



 ハングルは韓民族独自の文字として、朝鮮王朝四代国王である名君・世宗(セジョン)により15世紀に創りだされた。これは王朝中—後期の肉筆。美しい。国立中央博物館の特別展示より。あとで図録を買おうと思ったら、売っていなかった‥ので、詳細がわからない。

Calligraphy by the Hangeul alphabet,  Korea  Joseon dynasty,  National museum of Korea



 前回の訪問でひとめぼれをした高麗時代の鉄仏のドレープ。鋳型のつぎめに出来るラインがそのまま残る。そのラフさと鉄の素材感がたまらなく魅力的。

Buddha, Iron,  Korea  Goryeo dynasty  10th century, National museum of Korea



 朝の南大門(ナムデムン)市場。唐辛子の色彩がねぼけた眼に刺激的。秋夕‥チュソクのすぐ前だったので、お餅の類もきれいで楽しかった。

in Namdeamun market, Seoul, Korea



in Namdeamun market, Seoul, Korea


Discs for this month:







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2009年10月8日木曜日

宗廟 Jongmyo



 ソウルへでかけた。前回ははじめてということもあって、やきものをはじめ、いろいろな工芸品を安く手に入れられるのではないか、という甘い期待を抱いていた。つまり骨董屋さん巡りに夢中で、観光客らしい名所旧跡にはまるで訪れなかった。だから、今回の旅行でははじめから、ここだけは行きたいと思う場所があった。

 宗廟(チョンミョ)は朝鮮王朝歴代の王や王妃の魂が祀られている場所で、離宮‥長く王宮として使われた‥である昌徳宮(チャンドックン)に隣接し、正式な王宮の景福宮(キョンボックン)にもごく近い。周りは市民が憩う公園になっていて、街の中心部ということもあり、なんとなく京都の下鴨神社を思いおこさせる。木陰でおじさんたちが碁を打つ音が耳に心地よい。

 公園を抜け、参道を歩く。まっすぐ石畳が伸びている。まんなかに立って写真を撮ってから気がついたのだけれど、この石畳は先祖の魂が通る道であり、人が立ってよい場所ではないという。知らないこととはいえ、とても申し訳ない気持ちになる。
 廟の域内には、黒い体にワンポイントの青が美しい馴染みのない鳥が姿を見せる。実際に見るのははじめてだけれど、民画などにはよく登場する鵲(かささぎ)だ。民画では虎と対で描かれ、神様の言葉を伝える使いであるとされる。その鵲たちに導かれるように長い塀にそって進むと、その塀の中が廟の正殿だった。

 100メートルほどもあるという横長の正殿の前に広がる、花崗岩を敷きつめた月台と呼ばれる広場が、宗廟を特別な魅力のある場所にしている。今でも毎年祭礼が行われるという、舞台のように地面から一段高くなっている月台は、中心から端へ向かって、ゆるやかに曲面になっている。隣に建てられた永寧殿の月台はわりと水平を保っているので、わざと曲面にしているとは思えない。この曲面と、これも中心から端に行くにしたがって碁盤目から徐々に目が粗くなり、ばらばらとばらけていく石畳の不規則さが、冷たくいかめしいものになりがちな石の広場に不思議なリズムと表情を与えている。
 
 晴天に鵲の鳴き声と観光ガイドの声が溶けていく。宗廟はユネスコの世界遺産に登録されてもいるので、入れ替わり立ち替わりにツアーの人びとがやってきては去っていく。正殿の正面で韓服を着た老人が伏せて祈っていた。巡礼のようなものだろうか、と思って眺めていたら、しばらくすると老人はこちらへやってきて、何ごとか話しかけてくる。僕は日本人です、と言うと、とてもやわらかな顔で手をあわせる。とてもきれいな笑顔だった。


Jongmyo, Royal ancestral shrine of Joseon dynasty.  Seoul, Korea

2009年9月25日金曜日

李朝の糸巻き a Spool 



 部屋の中に増えていく朝鮮半島の工芸品を眺めていると、不思議な気分になることがある。昔から云われているように、かの地のやきものであったり木工品であったりが、なぜだか日本人の嗜好にぴったりくる、というのは本当のようだし、自分の感覚によく馴染むのも確かだけれど、それは、これもよく語られるように、私たちのルーツが朝鮮半島にあるからなのだろうか。

 僕の寝起きしているはなれが建っている場所は、以前はこの家の敷地ではなかった。昭和のはじめ頃、ここには朝鮮半島から来た家族が暮らしていたらしい。髭をたくわえたお爺さんは、家にいる時もきちんと、馬のしっぽの毛でできているという鍔広の帽子をかぶり、真っ白な服を着て、悠然と煙草をふかしていたという。息子さんたちとはちがい、けして日本語を話そうとはしなかったそうだ。

 霊的なものとかオカルト的なことを信じる方ではまったく無いけれど、土地の力、みたいなことをなんとなく思うことはある。やきものなどに興味はもたず、同じ古いものでもヴィンテージのレコードのほうがずっと好きだった自分がやきものを発見したきっかけのひとつは、江戸時代後期に瀬戸でつくられた麦藁手の碗の、モダンで洒脱なデザインに心を奪われたからだ。今では日常に茶を点てたりもするその器の多くは、ここから歩いて行けるような地域でつくられていた。

 李朝‥朝鮮王朝時代の終り頃のものだと思われる糸巻きには、幾何学的な模様‥これは餅型などにも共通して見られるモチーフで、おそらく吉祥模様だろう‥が彫られたもの、花や動物の姿を象ったり、彫ったりしたものなどがあり、同じ頃の民画にも通じるその造形は掌中にあって楽しく、眺めて飽きることがない。糸を巻くことによってすり減った角の部分や、何度も針を刺した跡。幾年も使われてこそ醸しだされる、なれの美しさに、かつての人びとの生活の様子を想えばことにいとおしい。敬愛する柳宗悦は、とかく職人のことを学が無い、と云っておられるけれど、糸巻きに刻まれた堂々とした文字は、それでは隠遁の両班(ヤンバン‥官僚階級の人びと)か儒学者の手になるものなのだろうか? 

 この場所に暮らした家族の、特別な日のごちそう‥おそらくご先祖へお供えする‥は、とても美しく魅力的だったらしい。糸巻きを指で撫でながら、会ったことのない人たちの姿を心に浮かべたとき、ふと不思議な気持ちになったりもする‥ものは、ただ「もの」ではないのだろう、きっと。


Wooden Spools,  Korea  late Joseon dynasty  19th-20th century 

2009年9月19日土曜日

盃 Cup of life



 あまりお酒が得意ではない。得意ではない、というのはあまりたくさん呑めないということで、けしてお酒がきらいなわけではない。ビールは苦手だけれど、おいしくて安いワインを探すのは楽しいし、たまには食事の前に日本酒を少々いただいたりもする。それでは、どういうときがその「たまに」なのかというと、やはり主に新しい器を求めたとき、ということになる。

 とはいえ、自分で古いやきものを見るときには、そのもののかたちや焼き上がりの雰囲気、釉薬の表情などが好みのものに眼がいくので、用途‥器型に細かなこだわりはなく、しいていえば、お茶を点てられないかな、と考えるくらいだ。そういった調子なので、それほど熱心に酒器を探すわけではないのだけれど、多くのものを見ていれば、とても気に入った雰囲気のものがたまたま酒器だった、ということは当然、ある。

 李朝‥朝鮮王朝時代のやきものには、現代の日本でいうところの酒盃というものはほぼ存在しないようで、では骨董屋さんが盃と称しているものは何かというと、メインの食器である直径17cmくらいの鉢のまわりに置くサイド・ディッシュ用の小鉢であったり、小皿であったりする。そういった中から、少し小振りなものをひろい出して盃に見立てるのだけれど、もともと無いものの中から探すのだから、当然その数は少ない。勢いがある、というよりはさっぱりとした印象を受ける刷毛目の小鉢は、かすかに掻きおとしによる陰刻があったりして愛らしく気に入っているけれど、見栄えが良いくらいにお酒を満たすとやはり、少々多くなりすぎるようだ。

 唐津と同じ窯で、日本で最初の磁器が焼かれたころに作られた初期伊万里の白磁の盃は、高温で焼けきっていない釉の、しっとりとした肌あいがちょうど良く、大きさとしても、あまりたくさん呑まない自分には理想的。朝鮮半島の、例のそのどんぶり鉢をそのまま小さくしたような姿からは、伊万里の陶工たちの出自‥もとはかの地から渡来した人々だったこと‥を、はっきりと見てとることができる。端反りの、きりっとした品格のある、とても美しい姿だ。

 くらわんか、というのは、江戸時代の磁器生産の中心である有田のものと比べると簡素に見える、長崎県の波佐見周辺で作られていた厚手の磁器を指して言う俗称だけれど、その名前の由来は、大坂の淀川を行き来する船を相手に食べ物や酒を商っていた人たちが、飯くらわんか、と、客である船員たちに声をかけていた、という話からきていることになっている。そういった話が紹介されるときにはだいたい、くらわんかの器は使い捨てで、そのまま淀川に捨てられた、と書いてある。実際はどうだったかというと、いくら磁器が普及してきたとはいえ、まだまだ高価だったであろうやきもの‥当時は割れたやきものを修復する商売もあった‥を、それも、しっかりとした耐久性のあるくらわんか‥遠く九州から運ばれてきた‥を使い捨てにすることは考え難い。たしかに淀川からは今でも陶片が見つかるみたいだけれど、割れた器をまとめて大きな川に捨てるくらいは有りうることで、ごみ捨て場がわりに捨てられたものや、事故にあった船の荷物だったものが発見されているのではないだろうか。
 長くなった。瀟洒な筆で野の花が描かれたくらわんか。李朝の秋草や、初期伊万里の蘭のような絵付けを想わせるけれど、遥かルーツはそこにあっても、この時代の器形や絵付けはもう、すっかり完成された日本のそれになっている。
 
 器を手に入れたときには眺めるのももちろん楽しいけれど、使うことができてこそ楽しい。それが酒器であれば、では、たまにはお酒を‥となるわけだから、つまり器ありき、やはりお酒好きの人とは思考の方向がちがうようだ。良かった、と思うのは、酒器というのは、盃にしろ徳利にしろたいてい高価なものなので、もしもやきもの好きでお酒も好きであったなら、とても困ったことになったであろう、と考えるからで、たくさん呑めなくともささやかに楽しめているのは、なかなか悪くないのではないか、と思っている。


Cups L to R:  Porcelain in “Kurawanka” Style, Hasami  Japan  Edo period  18th century.  Buncheong ware, Korea  Joseon dynasty  16th century.  White Porcelain,  Arita  Japan  Edo period  17th century.

2009年9月17日木曜日

常滑の山茶碗 Primitive forms



 鎌倉、室町時代の古窯址が周りの山々に点在する環境に育ったので、産まれた時から家の中には、父や叔父が集めてきた古瀬戸の陶片、残欠の類がそこかしこにあった。その中には当然、山茶碗と呼ばれる、上手の瓶子(へいし)などのきめこまかい土とは表情の異なる、荒い石まじりの土で作られた簡素な器もたくさんあり、最近でも骨董市などで目にすることのある、幾重にも重ねて焼かれたものの窯の中で灰が降りかかりすぎて溶着してしまった塊状のものなどは、石や植木鉢と一緒に庭に置かれていた。

 窯址のある山はちょっとした冒険や探検にはぴったりで、小さい頃にはかけまわることも多かった。きれいな模様の入った陶片などはなかなか拾うことはできないけれど、大量に作られていた山茶碗くらいなら、こどもの遊びついでにでも見つけられる。そんなこともあって、自分で古いやきものを求めるようになっても、山茶碗というものがその対象になることは、ずっとなかった。

 今年になってはじめて自分で求めた山茶碗は常滑のもので、つまり瀬戸のものとちがって家の中で発見、発掘することが難しいだろうから代価を支払おうと思ったわけだけれど、もちろんそれだけではなく、そのものが持っている見逃しがたい魅力に眼をとらえられたからなのは間違いない。

 常滑といえば、平安の経塚壺と呼ばれる大きな壺が連想される。やきものに限らず工芸全般にいえることだけれど、時代や産地に関わらず、原初のものの方が後世のものより、明らかに作行きに厳しさや品格の高さがみられるように思う。そのひとつの大きな理由は神仏に捧げられたものであったということで、やがてそれが人々が日々使うものに発展していけば、そこに軽さや柔らかさが生まれるのは自然なことなのだろう。そういった眼でこの山茶碗を見れば、器形に前の時代の須恵や猿投(さなげ)古窯群に通じる凛とした雰囲気があり、だから平安にひっかかるくらいは(時代が)あるのかな、と思ったりするわけなのだ。

 碗なりの器を手にするとどうしても、これでお茶を点てられるかどうか、と考える。この常滑の場合は窯キズや欠けもあり、修復をしないとそのままではお茶を喫することはできないし、それ以前に見込みが平らで広く、碗というよりは平鉢といったほうが適当だろう。それならそろそろ季節の栗きんとんでも乗っけたら似合うだろうな、などと想像してみると、なんとなく器の印象がそれまでよりも柔らかみを帯びてくる。山茶碗がこちらに近よってきてくれたのだろうか。


Bowl,  Tokoname kilns   Japan   Late Heian-Early Kamakura period   12-13th century


Discs for this month:

Excellent debut album from teenage Londoners. I imaged Young Marble Giants through the new age electronics.

Mellow electronica from New jersey. Included remix by Tom Furse of The Horrors.

Faris from The Horrors collaborated with former Ipso Facto's keyboardist Cherish Kaya.
This is a cover version of The Black Lips.

Emotional song, beautiful artworks and video clip.

The music of light and shade.

Listen now - Please click these titles.

2009年9月6日日曜日

硝子のコップ Glasses



 19世紀の英国製であるらしいコップを使っている。ねじり模様、というか螺旋模様の型吹き硝子で、西洋の食器にはよく見られるこの手の模様がなぜか好きなのだけれど、中でもこのコップのそれはひかえめで装飾的すぎず、とても好ましく思える。向こう側の模様と交差した斜線が格子を描き、そのあいまに気泡やピン・ホールが浮かぶ。水を注ぎ、光にかざせば更に美しい。

 今年の夏はとても蒸し暑い日が多かったような気がして、それはいつもよりたくさん水を飲んだことにもあらわれている。夏のはじめから活躍していた気に入りのコップは、息苦しいほど蒸し暑い日には少し小さく、2度、3度とおかわりをするのが習慣になった。そんなことを特別に意識していたわけではないのだけれど、明治の後期ごろに作られたという型吹きのコップは、ちょうどよい容量でいちばん暑い日々の喉をうるおしてくれた。はからずも先の英国製と同じころのもので、そっけないと言えるくらいすっきりとした形も薄作りの軽やかさも、大きさを除けばよく似ている。硝子が溶けて流れながら、マーブル模様のようにそのまま固まってしまったようなムラと気泡は、100年以上前のその瞬間の空気をそのままそこに残しているようで、眺めながら硝子職人のリズムを想う。

 カフェなどでよく使用されているDuralex(デュラレックス)ブランドのコップ。車のフロント・ガラスを作っていた技術を活かして、この強化ガラスのテーブル・ウェアの生産を始めたのは、フランスの国営企業らしい。有名なのはPicardie(ピカルディ)というタイプだけれど、愛用しているのはこれもごくシンプルなデザインのもので、Bodega(ボデガ)という名前だそうだ。大量生産品とはいえ昔ながらの吹き硝子の手法で作られていて、同じデザインといっても、当然ながらひとつひとつは微妙に異なる。口縁を切った跡も見込みの傾きもそれぞれで、どれにしようかと店頭で見比べるのもまた楽しくて、1杯のコーヒーより安い値段のコップではあっても、気持ちに与えてくれるものは大きい。


Glasses L to R “Bodega” by Duralex designed in 20th century, Japan late Meiji period 19th century, England 19th century

2009年9月2日水曜日

鶏龍山の陶片 Pieces from Mt.Gyeryong kilns



 李朝‥朝鮮王朝時代のやきものといえば、白磁と、もうひとつが粉青沙器(ふんせいさき)で、粉青沙器というのは所謂三島手とか粉引・刷毛目といった、茶色や灰色がかった土の上に、泥状にした白い土で化粧‥装飾をほどこしたもののことをいうのだけれど、15、16世紀の朝鮮半島の各地で作られた粉青沙器の中でも、独自の、そしてとても魅力的な雰囲気を持っているのが鶏龍山のやきものだ。

 鶏龍山(けいりゅうざん‥ケリョンサン)は韓国の地図のちょうどまんなかあたり、大田(テジョン)近くに位置する霊峰で、古くからの名刹が今も残る、日本で例えるなら高野山のような場所らしい。朝鮮半島のやきものは、同時代に各地で同じような形態のものが大量に作られているイメージがあるのに、鶏龍山のものだけがかなり独特の様式を持っていることにも、かの場所の、そんななりたちが関係しているのかもしれない。

 鶏龍山の独特の様式、白化粧土の上に、のびやかで奔放な筆で描かれた絵模様には、唐草や蓮のような、いかにもその土地の古刹と関連付けたくなるものから、ユーモラスで愛らしい魚や、モダンで洒脱な幾何学的なものまで(本人としてはちゃんと何かを描いたのかもしれませんが)があり、いくら眺めても飽くことがないのだけど、そういったものはそれほど簡単に身近に置けるわけではなく、そこで、このようなかけらを愛でることになる。

 たかだか小さな欠片ではあるけれど、ここには鶏龍山独特の極端に小さい高台も、細かい砂を散らした重ね焼きの跡も、たっぷりした白泥の化粧も充分に見てとれるし、見込みにたまった青みをおびた釉には、魅入られてしまうほど。

 冒頭に戻れば、白磁に対する粉青沙器は、磁器に対する陶器だと誤解されていることが多いけれど、朝鮮王朝時代のやきものというのはおおかた高麗青磁から移行したものに違いなく、こうした陶片を見てもわかるように、生地も釉もまったく磁器のそれなのだ(同じ血脈の唐津も)。ただ、鉄分が多く含まれているためにそれが灰褐色‥鶏龍山の場合はかなり黒く‥に発色してしまい、それを白く見せようとしたことから、白土による化粧という技法が生まれたということ。

 ものすごくきめの細かい、焼き締まった断面を見て、「ああ、やはり磁器っぽい」とつぶやいたりすることも割れていればこそ。とはいえ、「この器が元のかたちであったら、きっと目を見はるほど素晴らしかったことだろう」と、思ったりもする、その心のゆらめく感じも陶片を眺めるたのしみのひとつだ。


Pieces of Buncheong ware,   Mt.Gyeryong kilns   Korea   16th century