鎌倉、室町時代の古窯址が周りの山々に点在する環境に育ったので、産まれた時から家の中には、父や叔父が集めてきた古瀬戸の陶片、残欠の類がそこかしこにあった。その中には当然、山茶碗と呼ばれる、上手の瓶子(へいし)などのきめこまかい土とは表情の異なる、荒い石まじりの土で作られた簡素な器もたくさんあり、最近でも骨董市などで目にすることのある、幾重にも重ねて焼かれたものの窯の中で灰が降りかかりすぎて溶着してしまった塊状のものなどは、石や植木鉢と一緒に庭に置かれていた。
窯址のある山はちょっとした冒険や探検にはぴったりで、小さい頃にはかけまわることも多かった。きれいな模様の入った陶片などはなかなか拾うことはできないけれど、大量に作られていた山茶碗くらいなら、こどもの遊びついでにでも見つけられる。そんなこともあって、自分で古いやきものを求めるようになっても、山茶碗というものがその対象になることは、ずっとなかった。
今年になってはじめて自分で求めた山茶碗は常滑のもので、つまり瀬戸のものとちがって家の中で発見、発掘することが難しいだろうから代価を支払おうと思ったわけだけれど、もちろんそれだけではなく、そのものが持っている見逃しがたい魅力に眼をとらえられたからなのは間違いない。
常滑といえば、平安の経塚壺と呼ばれる大きな壺が連想される。やきものに限らず工芸全般にいえることだけれど、時代や産地に関わらず、原初のものの方が後世のものより、明らかに作行きに厳しさや品格の高さがみられるように思う。そのひとつの大きな理由は神仏に捧げられたものであったということで、やがてそれが人々が日々使うものに発展していけば、そこに軽さや柔らかさが生まれるのは自然なことなのだろう。そういった眼でこの山茶碗を見れば、器形に前の時代の須恵や猿投(さなげ)古窯群に通じる凛とした雰囲気があり、だから平安にひっかかるくらいは(時代が)あるのかな、と思ったりするわけなのだ。
碗なりの器を手にするとどうしても、これでお茶を点てられるかどうか、と考える。この常滑の場合は窯キズや欠けもあり、修復をしないとそのままではお茶を喫することはできないし、それ以前に見込みが平らで広く、碗というよりは平鉢といったほうが適当だろう。それならそろそろ季節の栗きんとんでも乗っけたら似合うだろうな、などと想像してみると、なんとなく器の印象がそれまでよりも柔らかみを帯びてくる。山茶碗がこちらに近よってきてくれたのだろうか。
Bowl, Tokoname kilns Japan Late Heian-Early Kamakura period 12-13th century
Discs for this month:
Excellent debut album from teenage Londoners. I imaged Young Marble Giants through the new age electronics.
Mellow electronica from New jersey. Included remix by Tom Furse of The Horrors.
Faris from The Horrors collaborated with former Ipso Facto's keyboardist Cherish Kaya.
This is a cover version of The Black Lips.
Emotional song, beautiful artworks and video clip.
The music of light and shade.
Listen now - Please click these titles.