2009年9月25日金曜日

李朝の糸巻き a Spool 



 部屋の中に増えていく朝鮮半島の工芸品を眺めていると、不思議な気分になることがある。昔から云われているように、かの地のやきものであったり木工品であったりが、なぜだか日本人の嗜好にぴったりくる、というのは本当のようだし、自分の感覚によく馴染むのも確かだけれど、それは、これもよく語られるように、私たちのルーツが朝鮮半島にあるからなのだろうか。

 僕の寝起きしているはなれが建っている場所は、以前はこの家の敷地ではなかった。昭和のはじめ頃、ここには朝鮮半島から来た家族が暮らしていたらしい。髭をたくわえたお爺さんは、家にいる時もきちんと、馬のしっぽの毛でできているという鍔広の帽子をかぶり、真っ白な服を着て、悠然と煙草をふかしていたという。息子さんたちとはちがい、けして日本語を話そうとはしなかったそうだ。

 霊的なものとかオカルト的なことを信じる方ではまったく無いけれど、土地の力、みたいなことをなんとなく思うことはある。やきものなどに興味はもたず、同じ古いものでもヴィンテージのレコードのほうがずっと好きだった自分がやきものを発見したきっかけのひとつは、江戸時代後期に瀬戸でつくられた麦藁手の碗の、モダンで洒脱なデザインに心を奪われたからだ。今では日常に茶を点てたりもするその器の多くは、ここから歩いて行けるような地域でつくられていた。

 李朝‥朝鮮王朝時代の終り頃のものだと思われる糸巻きには、幾何学的な模様‥これは餅型などにも共通して見られるモチーフで、おそらく吉祥模様だろう‥が彫られたもの、花や動物の姿を象ったり、彫ったりしたものなどがあり、同じ頃の民画にも通じるその造形は掌中にあって楽しく、眺めて飽きることがない。糸を巻くことによってすり減った角の部分や、何度も針を刺した跡。幾年も使われてこそ醸しだされる、なれの美しさに、かつての人びとの生活の様子を想えばことにいとおしい。敬愛する柳宗悦は、とかく職人のことを学が無い、と云っておられるけれど、糸巻きに刻まれた堂々とした文字は、それでは隠遁の両班(ヤンバン‥官僚階級の人びと)か儒学者の手になるものなのだろうか? 

 この場所に暮らした家族の、特別な日のごちそう‥おそらくご先祖へお供えする‥は、とても美しく魅力的だったらしい。糸巻きを指で撫でながら、会ったことのない人たちの姿を心に浮かべたとき、ふと不思議な気持ちになったりもする‥ものは、ただ「もの」ではないのだろう、きっと。


Wooden Spools,  Korea  late Joseon dynasty  19th-20th century 

2009年9月19日土曜日

盃 Cup of life



 あまりお酒が得意ではない。得意ではない、というのはあまりたくさん呑めないということで、けしてお酒がきらいなわけではない。ビールは苦手だけれど、おいしくて安いワインを探すのは楽しいし、たまには食事の前に日本酒を少々いただいたりもする。それでは、どういうときがその「たまに」なのかというと、やはり主に新しい器を求めたとき、ということになる。

 とはいえ、自分で古いやきものを見るときには、そのもののかたちや焼き上がりの雰囲気、釉薬の表情などが好みのものに眼がいくので、用途‥器型に細かなこだわりはなく、しいていえば、お茶を点てられないかな、と考えるくらいだ。そういった調子なので、それほど熱心に酒器を探すわけではないのだけれど、多くのものを見ていれば、とても気に入った雰囲気のものがたまたま酒器だった、ということは当然、ある。

 李朝‥朝鮮王朝時代のやきものには、現代の日本でいうところの酒盃というものはほぼ存在しないようで、では骨董屋さんが盃と称しているものは何かというと、メインの食器である直径17cmくらいの鉢のまわりに置くサイド・ディッシュ用の小鉢であったり、小皿であったりする。そういった中から、少し小振りなものをひろい出して盃に見立てるのだけれど、もともと無いものの中から探すのだから、当然その数は少ない。勢いがある、というよりはさっぱりとした印象を受ける刷毛目の小鉢は、かすかに掻きおとしによる陰刻があったりして愛らしく気に入っているけれど、見栄えが良いくらいにお酒を満たすとやはり、少々多くなりすぎるようだ。

 唐津と同じ窯で、日本で最初の磁器が焼かれたころに作られた初期伊万里の白磁の盃は、高温で焼けきっていない釉の、しっとりとした肌あいがちょうど良く、大きさとしても、あまりたくさん呑まない自分には理想的。朝鮮半島の、例のそのどんぶり鉢をそのまま小さくしたような姿からは、伊万里の陶工たちの出自‥もとはかの地から渡来した人々だったこと‥を、はっきりと見てとることができる。端反りの、きりっとした品格のある、とても美しい姿だ。

 くらわんか、というのは、江戸時代の磁器生産の中心である有田のものと比べると簡素に見える、長崎県の波佐見周辺で作られていた厚手の磁器を指して言う俗称だけれど、その名前の由来は、大坂の淀川を行き来する船を相手に食べ物や酒を商っていた人たちが、飯くらわんか、と、客である船員たちに声をかけていた、という話からきていることになっている。そういった話が紹介されるときにはだいたい、くらわんかの器は使い捨てで、そのまま淀川に捨てられた、と書いてある。実際はどうだったかというと、いくら磁器が普及してきたとはいえ、まだまだ高価だったであろうやきもの‥当時は割れたやきものを修復する商売もあった‥を、それも、しっかりとした耐久性のあるくらわんか‥遠く九州から運ばれてきた‥を使い捨てにすることは考え難い。たしかに淀川からは今でも陶片が見つかるみたいだけれど、割れた器をまとめて大きな川に捨てるくらいは有りうることで、ごみ捨て場がわりに捨てられたものや、事故にあった船の荷物だったものが発見されているのではないだろうか。
 長くなった。瀟洒な筆で野の花が描かれたくらわんか。李朝の秋草や、初期伊万里の蘭のような絵付けを想わせるけれど、遥かルーツはそこにあっても、この時代の器形や絵付けはもう、すっかり完成された日本のそれになっている。
 
 器を手に入れたときには眺めるのももちろん楽しいけれど、使うことができてこそ楽しい。それが酒器であれば、では、たまにはお酒を‥となるわけだから、つまり器ありき、やはりお酒好きの人とは思考の方向がちがうようだ。良かった、と思うのは、酒器というのは、盃にしろ徳利にしろたいてい高価なものなので、もしもやきもの好きでお酒も好きであったなら、とても困ったことになったであろう、と考えるからで、たくさん呑めなくともささやかに楽しめているのは、なかなか悪くないのではないか、と思っている。


Cups L to R:  Porcelain in “Kurawanka” Style, Hasami  Japan  Edo period  18th century.  Buncheong ware, Korea  Joseon dynasty  16th century.  White Porcelain,  Arita  Japan  Edo period  17th century.

2009年9月17日木曜日

常滑の山茶碗 Primitive forms



 鎌倉、室町時代の古窯址が周りの山々に点在する環境に育ったので、産まれた時から家の中には、父や叔父が集めてきた古瀬戸の陶片、残欠の類がそこかしこにあった。その中には当然、山茶碗と呼ばれる、上手の瓶子(へいし)などのきめこまかい土とは表情の異なる、荒い石まじりの土で作られた簡素な器もたくさんあり、最近でも骨董市などで目にすることのある、幾重にも重ねて焼かれたものの窯の中で灰が降りかかりすぎて溶着してしまった塊状のものなどは、石や植木鉢と一緒に庭に置かれていた。

 窯址のある山はちょっとした冒険や探検にはぴったりで、小さい頃にはかけまわることも多かった。きれいな模様の入った陶片などはなかなか拾うことはできないけれど、大量に作られていた山茶碗くらいなら、こどもの遊びついでにでも見つけられる。そんなこともあって、自分で古いやきものを求めるようになっても、山茶碗というものがその対象になることは、ずっとなかった。

 今年になってはじめて自分で求めた山茶碗は常滑のもので、つまり瀬戸のものとちがって家の中で発見、発掘することが難しいだろうから代価を支払おうと思ったわけだけれど、もちろんそれだけではなく、そのものが持っている見逃しがたい魅力に眼をとらえられたからなのは間違いない。

 常滑といえば、平安の経塚壺と呼ばれる大きな壺が連想される。やきものに限らず工芸全般にいえることだけれど、時代や産地に関わらず、原初のものの方が後世のものより、明らかに作行きに厳しさや品格の高さがみられるように思う。そのひとつの大きな理由は神仏に捧げられたものであったということで、やがてそれが人々が日々使うものに発展していけば、そこに軽さや柔らかさが生まれるのは自然なことなのだろう。そういった眼でこの山茶碗を見れば、器形に前の時代の須恵や猿投(さなげ)古窯群に通じる凛とした雰囲気があり、だから平安にひっかかるくらいは(時代が)あるのかな、と思ったりするわけなのだ。

 碗なりの器を手にするとどうしても、これでお茶を点てられるかどうか、と考える。この常滑の場合は窯キズや欠けもあり、修復をしないとそのままではお茶を喫することはできないし、それ以前に見込みが平らで広く、碗というよりは平鉢といったほうが適当だろう。それならそろそろ季節の栗きんとんでも乗っけたら似合うだろうな、などと想像してみると、なんとなく器の印象がそれまでよりも柔らかみを帯びてくる。山茶碗がこちらに近よってきてくれたのだろうか。


Bowl,  Tokoname kilns   Japan   Late Heian-Early Kamakura period   12-13th century


Discs for this month:

Excellent debut album from teenage Londoners. I imaged Young Marble Giants through the new age electronics.

Mellow electronica from New jersey. Included remix by Tom Furse of The Horrors.

Faris from The Horrors collaborated with former Ipso Facto's keyboardist Cherish Kaya.
This is a cover version of The Black Lips.

Emotional song, beautiful artworks and video clip.

The music of light and shade.

Listen now - Please click these titles.

2009年9月6日日曜日

硝子のコップ Glasses



 19世紀の英国製であるらしいコップを使っている。ねじり模様、というか螺旋模様の型吹き硝子で、西洋の食器にはよく見られるこの手の模様がなぜか好きなのだけれど、中でもこのコップのそれはひかえめで装飾的すぎず、とても好ましく思える。向こう側の模様と交差した斜線が格子を描き、そのあいまに気泡やピン・ホールが浮かぶ。水を注ぎ、光にかざせば更に美しい。

 今年の夏はとても蒸し暑い日が多かったような気がして、それはいつもよりたくさん水を飲んだことにもあらわれている。夏のはじめから活躍していた気に入りのコップは、息苦しいほど蒸し暑い日には少し小さく、2度、3度とおかわりをするのが習慣になった。そんなことを特別に意識していたわけではないのだけれど、明治の後期ごろに作られたという型吹きのコップは、ちょうどよい容量でいちばん暑い日々の喉をうるおしてくれた。はからずも先の英国製と同じころのもので、そっけないと言えるくらいすっきりとした形も薄作りの軽やかさも、大きさを除けばよく似ている。硝子が溶けて流れながら、マーブル模様のようにそのまま固まってしまったようなムラと気泡は、100年以上前のその瞬間の空気をそのままそこに残しているようで、眺めながら硝子職人のリズムを想う。

 カフェなどでよく使用されているDuralex(デュラレックス)ブランドのコップ。車のフロント・ガラスを作っていた技術を活かして、この強化ガラスのテーブル・ウェアの生産を始めたのは、フランスの国営企業らしい。有名なのはPicardie(ピカルディ)というタイプだけれど、愛用しているのはこれもごくシンプルなデザインのもので、Bodega(ボデガ)という名前だそうだ。大量生産品とはいえ昔ながらの吹き硝子の手法で作られていて、同じデザインといっても、当然ながらひとつひとつは微妙に異なる。口縁を切った跡も見込みの傾きもそれぞれで、どれにしようかと店頭で見比べるのもまた楽しくて、1杯のコーヒーより安い値段のコップではあっても、気持ちに与えてくれるものは大きい。


Glasses L to R “Bodega” by Duralex designed in 20th century, Japan late Meiji period 19th century, England 19th century

2009年9月2日水曜日

鶏龍山の陶片 Pieces from Mt.Gyeryong kilns



 李朝‥朝鮮王朝時代のやきものといえば、白磁と、もうひとつが粉青沙器(ふんせいさき)で、粉青沙器というのは所謂三島手とか粉引・刷毛目といった、茶色や灰色がかった土の上に、泥状にした白い土で化粧‥装飾をほどこしたもののことをいうのだけれど、15、16世紀の朝鮮半島の各地で作られた粉青沙器の中でも、独自の、そしてとても魅力的な雰囲気を持っているのが鶏龍山のやきものだ。

 鶏龍山(けいりゅうざん‥ケリョンサン)は韓国の地図のちょうどまんなかあたり、大田(テジョン)近くに位置する霊峰で、古くからの名刹が今も残る、日本で例えるなら高野山のような場所らしい。朝鮮半島のやきものは、同時代に各地で同じような形態のものが大量に作られているイメージがあるのに、鶏龍山のものだけがかなり独特の様式を持っていることにも、かの場所の、そんななりたちが関係しているのかもしれない。

 鶏龍山の独特の様式、白化粧土の上に、のびやかで奔放な筆で描かれた絵模様には、唐草や蓮のような、いかにもその土地の古刹と関連付けたくなるものから、ユーモラスで愛らしい魚や、モダンで洒脱な幾何学的なものまで(本人としてはちゃんと何かを描いたのかもしれませんが)があり、いくら眺めても飽くことがないのだけど、そういったものはそれほど簡単に身近に置けるわけではなく、そこで、このようなかけらを愛でることになる。

 たかだか小さな欠片ではあるけれど、ここには鶏龍山独特の極端に小さい高台も、細かい砂を散らした重ね焼きの跡も、たっぷりした白泥の化粧も充分に見てとれるし、見込みにたまった青みをおびた釉には、魅入られてしまうほど。

 冒頭に戻れば、白磁に対する粉青沙器は、磁器に対する陶器だと誤解されていることが多いけれど、朝鮮王朝時代のやきものというのはおおかた高麗青磁から移行したものに違いなく、こうした陶片を見てもわかるように、生地も釉もまったく磁器のそれなのだ(同じ血脈の唐津も)。ただ、鉄分が多く含まれているためにそれが灰褐色‥鶏龍山の場合はかなり黒く‥に発色してしまい、それを白く見せようとしたことから、白土による化粧という技法が生まれたということ。

 ものすごくきめの細かい、焼き締まった断面を見て、「ああ、やはり磁器っぽい」とつぶやいたりすることも割れていればこそ。とはいえ、「この器が元のかたちであったら、きっと目を見はるほど素晴らしかったことだろう」と、思ったりもする、その心のゆらめく感じも陶片を眺めるたのしみのひとつだ。


Pieces of Buncheong ware,   Mt.Gyeryong kilns   Korea   16th century