部屋の中に増えていく朝鮮半島の工芸品を眺めていると、不思議な気分になることがある。昔から云われているように、かの地のやきものであったり木工品であったりが、なぜだか日本人の嗜好にぴったりくる、というのは本当のようだし、自分の感覚によく馴染むのも確かだけれど、それは、これもよく語られるように、私たちのルーツが朝鮮半島にあるからなのだろうか。
僕の寝起きしているはなれが建っている場所は、以前はこの家の敷地ではなかった。昭和のはじめ頃、ここには朝鮮半島から来た家族が暮らしていたらしい。髭をたくわえたお爺さんは、家にいる時もきちんと、馬のしっぽの毛でできているという鍔広の帽子をかぶり、真っ白な服を着て、悠然と煙草をふかしていたという。息子さんたちとはちがい、けして日本語を話そうとはしなかったそうだ。
霊的なものとかオカルト的なことを信じる方ではまったく無いけれど、土地の力、みたいなことをなんとなく思うことはある。やきものなどに興味はもたず、同じ古いものでもヴィンテージのレコードのほうがずっと好きだった自分がやきものを発見したきっかけのひとつは、江戸時代後期に瀬戸でつくられた麦藁手の碗の、モダンで洒脱なデザインに心を奪われたからだ。今では日常に茶を点てたりもするその器の多くは、ここから歩いて行けるような地域でつくられていた。
李朝‥朝鮮王朝時代の終り頃のものだと思われる糸巻きには、幾何学的な模様‥これは餅型などにも共通して見られるモチーフで、おそらく吉祥模様だろう‥が彫られたもの、花や動物の姿を象ったり、彫ったりしたものなどがあり、同じ頃の民画にも通じるその造形は掌中にあって楽しく、眺めて飽きることがない。糸を巻くことによってすり減った角の部分や、何度も針を刺した跡。幾年も使われてこそ醸しだされる、なれの美しさに、かつての人びとの生活の様子を想えばことにいとおしい。敬愛する柳宗悦は、とかく職人のことを学が無い、と云っておられるけれど、糸巻きに刻まれた堂々とした文字は、それでは隠遁の両班(ヤンバン‥官僚階級の人びと)か儒学者の手になるものなのだろうか?
この場所に暮らした家族の、特別な日のごちそう‥おそらくご先祖へお供えする‥は、とても美しく魅力的だったらしい。糸巻きを指で撫でながら、会ったことのない人たちの姿を心に浮かべたとき、ふと不思議な気持ちになったりもする‥ものは、ただ「もの」ではないのだろう、きっと。
Wooden Spools, Korea late Joseon dynasty 19th-20th century